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宇宙ショーへようこそ その2

宇宙ショーへようこそ 四点セット

いや、なんかね、前回の日記で散々アニメオタク批判みたいな事書いたのに、本当に申し訳ない。
ふっと自分の行動を見返してみて我に返った。

半券、おまけポスター、チラシ、そしてパンフ

この四点セットがそろってないととても気持ちが悪いw
おまけつき前売り券買うために人を劇場に走らせてでもgetしたい。そう思います。

いやーつくづくサガですなあ~

ぺーそすぺーそす
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  1. 2010/07/05(月) 05:35:23|
  2. 映画・アニメ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

宇宙ショーへようこそ

池袋のシネリーブルに行ってきた。
客入りは休日のためかほぼ満員。
よしよし、いいぞいいぞ!面白いからもっとみんな映画館に行け!

宇宙ショーへようこそ公式HPはこちら



大学在学中にかみちゅで完全にベサメムーチョの虜になって、RODで完全に精神をやられたオレ。
大学卒業してから完全に脱アニメしたにも関わらず、やっぱり見に行っちゃうというオタの悲しいペーソスを感じる。
一度確立した生活習慣というものはなかなか直らないものですね。

作品を鑑賞して感じるところはたくさんある。
ここ数年でアニメ作品のスタイルは徐々に変わっていると感じる。
例を挙げると、

●田舎オリエンテッドな作風が増えていること(地名・地理的な枠組の挿入とコミュニティー意識の醸成)
●リアリティーの位相の変化(バーチャルリアリティーに取って代わって“田舎社会の構造”がそれを代行する)
●善観念の変化(ポスト決断主義時代の善の観念の形成)
●トラブルメーカーの絶対性(物語を展開させるための絶対条件)
●物語の帰結と日常の連帯(物語がきちんと終わって日常がまた始まる。物語と日常がきちんと分離している)
などなど・・・。

物語を描いていくということ。
フィクションを作るということ。
そういうことに対して、非常にナーバスになっていた時代というのがやっと終わったんだなと感じる。
セカイ系作品群が“物語”そのものを破壊してから約10年間、物語を描くということ自体にまったく正当性が無くなってしまった時代が確かにあった。

なにが創作を阻害していたのか?
それは色々な理由があるだろうが、ひとつに“リアリティー”というものがあるだろう。
今回はリアリティーの話を簡単にしてみる。

リアリティーとは作品世界と現実社会を繋ぐ接続装置。
それは登場人物と舞台設定の二つの面から成っていて、
登場人物の動機と行為の結果そして緻密なガジェットと作品世界を貫く(架空の)歴史性・文化性・テクノロジーとして作品内に設置される。

もし、たとえば登場人物の動機が理解不能。行動原理がナゾ。という演出がなされたり、
突如として根拠も裏付けもないテクノロジーがストーリーを一変させる(これがいわゆるGONZOオチ)といったことがおこれば、それはリアリティーの欠如したいい加減な作品と断罪される。
つまり、「アリエナイ!!」と。

だが少し考える必要がある。
物語(=フィクション)が「アリエル」必要がどこにあるのかと。

『宇宙ショーへようこそ』では(『時かけ』にも感じたことだが)、リアリティーというものは、犬(ポチ)が日本語を喋った時点で崩壊している。すでに我々の世界との接続は断ち切られている。
宇宙科学技術に関してもロートルばかりがこれでもかと並び立てられていて、徹底的にウソの羅列である。
そう、この接続の断絶とウソに徹底するというスタンスが大切なのだ。

物語がウソであることは誰もが知ってる。
物語が事実であったらそれは物語ではない。
物語には現実との断絶が必ず必要である。
現実と断絶することによって物語は物語たりえる。
それはすべての神話・宗教にも言えることで、この物語の概念は古代ギリシアでソクラテスおじさんが神話を批判し始めたころから少しも変わっていない。
ソクラテスは(あるいは古代ギリシア哲学研究者J.バーネットは)この両者の断絶をもって物語の絶対原則としている。

ポチが日本語を喋った事に対して「アリエナイ!!」と指摘するのはナンセンスの極みだろう。
たしかにポチが日本語を喋ったことに対してのツッコミは作品内でもなされる。
が、それは否定ではなくリアクションであり、むしろ何らかしらのレスポンスを与えることによって承認を与える行為なのである。
そう、つまり、物語のリアリティーというものは、そういうことなのだ。
アリエルかアリエナイかという判断は、そもそも我々現実世界を生きる人間が決定するべき事柄ではない。
リアリティーとは物語世界の住人たる登場人物の承認行為によってのみ決定されるものである。
そのようにして物語は登場人物たちの行為によって構成されていく。
我々が物語の構成に承認を与えようという願望は物語を大いに阻害するだけなのだ。


話を締めにかかるぞ。


物語のリアリティーと我々の世界のリアリティーが同じ位相にあると考えることが、そもそもの間違い。
『空想科学読本』という本がオレの世代では一時流行ったが、あの書物の邪悪さと全く同じ邪をここで指摘できる。
フィクションをウソと指摘することのナンセンスさが、まったくナンセンスと扱われなかった時代が10年間つづいたのである。
「我々(現実世界)のリアリティーとは違うからこれはウソだ!クソアニメだ!」と、物語に対して指摘するスノッブどもがあまりにも多すぎた。
そのような物語イコール現実というスタンスに拘泥するファンと作家達(新海誠、おまえだ!)の狭い循環の中では物語は作れない。
なぜならば現実は物語ではないからだし、物語は現実ではないからであるが、
物語が現実的であるということは、裏をかえせば物語の可能性(それは自由な想像力の可能性)を著しく拘束することにつながる。
フィクションの可能性の幅を著しく狭めてしまう現実の様相というのは、なんとも貧しい社会であって、現実社会と言えどももっと豊かで楽しいウソにまみれていても良いのではないかとおもうのだが、それはやはりこのご時世、仕方のないことであろう。
(現実を物語のように生きること、あるいは物語を現実のように語ることの有用性はまた今度書こうとおもう。)


『宇宙ショー』の登場人物達が描いたラスト。
二度と戻らない夏休み、もう二度と会えないであろう人々、そしてもしかしたら会えるかもしれないという希望!
冒険(=物語)の終わりと日常の再開(それは物語と日常の分離というテーマ)を登場人物達の一連の体験を通して、田舎オリエンテッド系のアニメ作品の多くは意図的に描いているように思われる。

物語を物語として自覚すること。
そのことを通じて、アニメはつまらないリアリティーの牽制から自由になろうとしている。
煮詰まりすぎたリアリティーへの緊張感が爆発・反転してやっとこさ自由な想像力が発揮できる時代が来たのだ。
ならば、もっとハチャメチャをやるしかない!

がんばれベサメ!!
もっともっとゆるい物語構成でエゴイスティックなアニメファンを泣かせてやれ!


最後に、上記のようなオレの意見を読んでくれた人のなかにこう思う人がいるかもしれない。
「物語を作った人間は現実世界の人間なのだから、物語の登場人物・舞台設定、その全てに現実のリアリティーが介在してる」と。
つまり、「物語は現実なのだ」と。
それは正当な意見だと思う。オレも昔はそう考えていたし、そういう側面が有ることも知っている。

だけど今オレは、こう思う。
人が物語を描くとき、何かを物語に託すんじゃなかろうか。
現実とは違う場所に祈りと希望を込めて。

作家の意志は誰にもジャマされず“物語というゆりかごのなかで守られている”
そういう風に考えてあげたいなと思うのです。




  1. 2010/07/05(月) 05:11:35|
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プロフィール

パム太郎

Author:パム太郎
・1984年生まれ

・出生地 香川県/出身地 千葉県

・某TY大学 文学部哲学科卒

・ペンタックスと浦和レッズを愛する

・ビールはサッポロ CPUはAMD

・アンチアフィリエイト派

・社会のボトムズ

・メールアドレスは
 pam.taroあっとgmail.com

・Mixiからの引き継ぎブログです。

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